超ホモ・サピエンス日記サテライト。

このブログはノンフィクションです。

好かれること、嫌われること。

私は、幼少の頃から、余り人に「嫌われた」と言う記憶がなかった。

実際、嫌われたりしたことはあったのだと思う。たぶん。

 

鈍感だったのだろうか?と、のちのち、いろいろと考えてみた。

実際には、そういうことがあったのに、私の記憶から消去されているのかもしれない。にんげんというものは、自分に都合の悪いことは記憶から消してしまうような安全システムがついている。

しかし、どんなに考えても考えても、思い出そうとしても。人に嫌がられて、意地悪をされたり、虐められたりといったことに対する記憶がなかった。

 

それは、ただ、「なかった」という事実があるだけだった。

 

20歳ぐらいの頃、私が自我の目覚め後、知り合った人が居た。

私は、友人は必要ないので、彼女がとてもなついてきているのはわかっていたのだけれど、基本的に親しくなりたいと思わなかった。

でも、彼女はあきらめることなく、私に果敢にチャレンジを続けるのだった。

おそらく、個性的(に彼女からは見えたのだろう)な女の子に興味のある彼女は、

自分の友人コレクションに私を追加したかった。

 

そのことを、私はわかっていた。だから、適度に接していた。

彼女が嫌いなわけではない。むしろ、少し同情していた。

彼女は、自分が無意識のうちに、私に興味を持っていることに気がついていなかった。彼女にとって、愛や暖かいもの、ふわふわと包まれる幸福や、小宇宙を形成する家族のありようを、おそらく味わったことがなかったようだった(と、私は理解した)

私にとっては、彼女は少し面倒くさい、だがしかし、放っておくのはしのびない、そんな存在だった。だって、彼女の人間関係や友人関係を知る限り、私のような人間はいないようだったから。そして、私なりに、彼女に対して、好意を持つようになった。

 

後に彼女が語ること。

「あのころはさー、白鳥有紀っていう子にさー、もう恋していたようなもんだよね、ぎゃははは。猫を手なづけるように、毛を逆立てないようにさー、すごい、時間かけてならしたもんね・・・もうさー、仲良くなれんのに、一年以上かかったよね・・・!?ねー!もう最高記録だよ!ぎゃはははは・・」

 

つーか。ふざけんな。

あたしゃー、ねこじゃねえ。にんげんだっつーのふざけんな。

 

でも、これは彼女特有の「ジョーク」のつもり、「一流のユーモア」のつもり、なので仕方がありませんが、そういう人なんですね・・・困ったことに。

 

で、いつごろだろうか、3年ほどは経って、それなりに友人と言う地位を築きあげていたころだろうな、たぶん。

 

彼女が、こう言った。

 

「あれだね、白鳥ちゃんは、好き嫌いが別れるね!たぶん。

 白鳥ちゃんの事を、スゴイ好きな人はいるだろうけど

 すごい嫌いな人は、嫌いだろうね」

 

私は、ものすごく、ビックリしたんですよ。この言葉に。

 

みなさんは「自分のことを、すごく嫌いな人」に会ったことはありますか?

私は、このときまで、ありませんでした。

 

自分の事を、嫌いな人って、寄ってこないじゃないですか?

こちらも、嫌われそうな(合わなそうな)人間とは、出会ってもそれ以上、ちかづいていかないでしょう?学校だって、職場だって、ある程度、必要以上に距離をつめないじゃないですか?だって、不快な思いをすることが分かっているのに。そんなことするヤツあ、阿呆だろ。

 

この発言をするということは、彼女は「ときどき」私のことを嫌いだったのだと思いました。そして、そのことは、もちろんお互い様だと感じていました。

 

でも少なくとも、私は、その事を彼女には言わない。

 

でも、彼女はそれを堂々と言えてしまうわけですね。

そのことは、彼女の浅はかさを物語っています。

そもそも、私の家族は全員、初めて彼女に会った時に

「あのひとと、お付き合いするのはやめなさい」と、言われていました。

私は、家族達がそう言うのも、あ~もっともだ~、もっともだ~と思いながら、

(彼女は初対面から、人を不快にする何かを持っている人なんです)

それでも、彼女をほうっておけなかった。

 

なぜなら、人々が彼女に対して感じる不快感。違和感。

その根底にあるものが、彼女の未熟さだと言う事が、その頃には分かっていたから。

 

 

で、話がまた脱線だな。

つまりね、自分が体験したことのない事を、人間は知ることが出来ないわけですよ。

実際に、人に好かれる人は、人に嫌われると言うことが、どんなことなのか、体験できない。知ることが、できないんです。相反することは、同時に体験することは人生において出来ない。

 

んで、わたしはですね、この彼女の発言の後、「そうか~~~」と思いました。

私の事が、嫌いな人間がいるんだ!と。

 

で、極端なイチかゼロか思考のわたしは、180度転換することにしました。

 

「世界中の人間は、私を嫌いだ」と、

デフォルトで考えることに変更しました。

 

もう、初期状態を「全員に、嫌われている」と言う風に決めちゃうんですね。

出会ったときに、あなたに好感を持っている人がいたら

「ああ、この人はまだ私を良く知らない。もっと知れば、そのうち嫌いになるから」

と思えばOK.

 

これはねー、ものすごい発見で、是非、皆さんにもおススメしたい。

 

すごーーーーーく、楽になります。まじで。

余計な雑念も消えます。ほんとうです。

 

私の母は、とても他者に愛される人なのですが

「人から好かれるより、嫌われる方がラクよお~~~」と、言った事があって。

それを時々考えていた私は、好かれることと嫌われることの違いがよくわからん、とおもっていたのですが、これで全部解決しました(笑)

 

 

 

わたしには、この2割とかの比率はどうでもいい。理解できない。

むしろ目の前に居る、わたしが最も愛しているものに、嫌われていても構わない。

世界中の人間達に嫌われている方が、むしろ、生きて行きやすい。

なぜなら、愛されることによって、得られるものなどないからだ。

 

わたしが対象を、愛しているから。愛するものの為なら、自分に出来る限りのことを、出来るだけやる。憎まれても構わない。憎まれることで、相手に貢献できるのであれば、むしろそうありたい。自分の自我なんかを、大事に守っているから、いつまでたっても傷のなめあいしかできない。嫌われて上等。自我よりも、自己を鍛えよ。

 

世界中の二割の人間は、あなたを嫌いにならないなどと言う、根拠のない言説で、人間を甘やかそうなんていう社会は、なんて、幼稚なんだろうと思う。

 

 相手に好かれる自分になるな。相手に、貢献できるような、強く、たくましく、賢く、やさしい人間になること。そこだけを考えることが、人間にとって、最も重要な成熟に向かうただひとつの道である。この小さな世界の、短い生涯の好感度など、何の価値もないといっても過言ではない。自分が、この世界に対して、どんな貢献が出来るのか、その事を考え続けて、たゆまぬ努力を、してほしい。こころから、そう思う。

特に、日本社会は幼稚さに満ちている。欧米と比較するのは好きではないが、いまの日本社会は、非常に幼稚だ。

 

もうちょっとさー、成熟に、むかおうよ。

1mmでもいいから、成熟にむかって進め。

 

 

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