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超ホモ・サピエンス日記サテライト。

このブログはノンフィクションです。

社会化とは、対話をかさねること。

 うーん、マンダム。

self.hatenablog.com

 対話の重要性について、書かれた記事。これを読んで、思い出されたこと。

TEDで我らがテンプル・グランディンが、

「子供の社会化は非常に重要だ」と繰り返し述べていたこと。

 

とても面白い講演なので、よろしかったらご覧ください。

www.ted.com

テンプル・グランディンさんは既に充分、有名な方なので説明不要と思いますが、当事者でありながら、前進を続けて社会的意義と貢献を果たし続けている素晴らしい女性です。現在進行形。こういう方を「彼女は天才だから」で片付けてしまわずに、学べることは、どんどん学んで生きたい、ほととぎす。

 

さて、「社会化」とはいったいなにか?

 

冒頭のうえすとさんの記事に「批判や、議論を目的としない」という前提条件がありますが、基本的にそれが対話の前提なのだと思います。

批判や議論の材料としてしか、相手の話を聞かないということは

「対話をする気はありません」と、はなから表明しているようなもの。

 

対話が生まれるはずが無い。

 

対話をするということは、相手の言わんとする事を

「理解しようと努める」姿勢そのものであります!

 

そして、自分なりに受け止めて、咀嚼してみた結果を、レスポンスする、ということ。

 

テンプル・グランディンさんは「子供時代に発達しょうがいだからといって、ギフテッド教育のみの場で、閉じられてしまう危険性」について憂慮されているのではないかと思います。発達しょうがい当事者、もしくはその疑いの在る者たちにとって、定型発達、多数派、そういう方々と、「批判や議論を目的とせず」素直で正直に、相手とコミュニケーションをするという場が、なかなか実現しにくいと言うのが現実の所だと思います。そもそも、思い込みや先入観で、耳は閉じる。

 

二者対立構造になってしまうと、「おまえら、発達しょうがい者だから邪魔!」とか

「定型発達はなんにもわかってねえぜ」ということになって、全くプラスになりません。

 

本来、自然界は、良いものも悪いものもなく、共存します。

どんな展開になっても、全てを活用して、自然界はバランスを取ります。

人間達も、そのような仕組みを意識的に作っていくほうがいい。

 

発達しょうがいが本当に障害なのかどうか、まだ分からないと思う。

少なくとも100%の証明はされて居ないと思いませんか?

もしかしたら、発達しょうがいの診断を下される可能性のある人が、それを考えることも無く生活して、生きて、死んでいく。

はたまた全ての発達しょうがいもしくはその傾向の在る者は、苦しみながら成長するとも限らないし、その自分を知ることによってこそ、大人になる、成熟すると言うことが可能なのかもしれない。

定型発達の人は、すんなり苦しむことも無く、成長とともに社会に溶け込んでいけるのかもしれない。私も、そうだったらよかった。でもそんなことは「ひとそれぞれ」なんです。

 

というより、私は【発達しょうがい】という単語そのものが無くなって

ひとつの傾向ととらえられるようになる世界がくるのを、心から望んでいます。

 

生きづらいと言う問題、でも、それも、定型発達の知能が在る程度高い人でも

いくらでも感じる可能性のあることだと思う。

 

そして、発達しょうがいという断定が、人々の自立心前向きな姿勢に水をさすようなことは、絶対に避けるべきだとどうしても感じてしまう。

 

障害というものそのものに対する考え方にもなるかもしれないけど

まったく「障害的にさえなりうる欠点」を持たない人間など、この世に存在するのでしょうか?私は、ないとおもう。

 

スペクトラムである以上、私たちは一人残らず、完璧ではないのだから。

定型発達であっても、発達しょうがいの診断が降りていても

おなじこと。

沢山のヒトビトと出会い、自分を知り、自立して、自分の望む日々を過ごすこと。

それ以外に、生まれてきた意味など、ない。

 

障害であるということは、それ自体が、むしろ、私の宝である。

わたしをわたしたらしめている事実でも、あるのだ。

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