超ホモ・サピエンス日記サテライト。

このブログはノンフィクションです。

幸福とかいうもの。

「幸福」だとか、それに類するような、いろいろ。

 

それは、家のようなものだ。

 

そう、おうち。

http://leohouse.jp/img/products/theory_sub001.png こんなん。

とか

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/c0/Gingerbread_House_Essex_CT.jpg そんなん。

とか

http://www.historytrips.eu/images/castles/Castle_de_Haar.jpg これもじゃーん。

あとは

http://livedoor.blogimg.jp/news_r/imgs/1/4/14c5c2ae.jpg これも立派なおうちねっ!

 

家というものは、ソコに住む人間を、守る目的で作られる。

雨、風、しのいだりさ。

夜、外敵に襲われることなく安心してぐっすり寝たりさ。

でも、守るだけでなく、さまざまな自由も得られる。

楽しい、ほっとする、自分の基地。

 

で、タイトルに戻るけど、幸福というものの「基礎部分」にあるものというものは

「わがまま」なんだと、思う。

 

当人にとって、ワガママというものは、自分が求める「なにか」への表面的な出っ張りだから、おおもとたるその何かというものは、欲求である。

 

で、その欲求というのは、自分でも自覚の無い「大きな望み」の一部分にすぎない。

その発露。

 

だから、ワガママというものは、ほんの「先っちょ」みたいな感じで、その全貌を明らかにするまでは、「わがまま」というものを、もっともっと、多角的に、360度方向から、真剣に眺めて回して舐めまわして、はっきりとくっきりと明らかにするまでは、ちょっとくらいの障害で諦めちゃいけない。

 

たいてい間違えやすいのは、

ワガママを「他者に」向けてしまいやすいということだ。

 

本来、ワガママというものは自分に対して、向けるもの」である。

 

自分が、自分の、「わがまま」をかなえてあげること。

 

それ以外に、本当に、かなえてくれるヒトは、存在しない。

 

みんな自分の事で、精一杯だから。

自分の日々の生存欲求かなえるのも結構、ひと苦労だもんな。

 

ワガママのベクトルは、本来、常に自分に向いている。

 

で、そうすると、そのワガママを、研ぎ澄ませて、全体像を明らかにして、そんで、余計なモノを削ったり、バランスを整えたりして洗練させていくうちに、時間はかかるけど、建物の基礎部分みたいなのが出来上がる。

 

https://s.token.co.jp/product/structure/explain/image/wood.jpg これ。

これが、「わがまま」だ。

だいたい、コレを一人で作るのは、結構時間がかかる。

ヒトと共同でやると楽だけど、お互いに、求めるポイントがちょっと違うので、多少妥協しないといけない。そうすると、複数の妥協案になるけど、まあ、それもよし。

こだわりが少ないタイプなら、共同の方が楽かも。こだわるタイプの人は、ひとりでやったほうがいいよー。

 

で、基礎部分(わがまま)がしっかりとしていると、その上に建つ建物は、勿論強度が増す。そして出来上がりのビジョンも、もしも基礎をしっかりと作り上げようとするならその段階で、様々なイメージが生まれ、それを踏まえての基礎作りにも兼ねることとなるだろう。

 

ゆえに、最終的に出来上がる建物には、それぞれの個性が反映されることとなる。

 

見てくれがいいのとか、ちょー頑丈そうとか、すごく壮麗とか、お城みたいとか、バラックとかさ、いろいろ。

見てくれだけすごくよく似てて、基礎がぜんぜん違うってのもあるし。

ウワモノだけ真似たってダメなのよ。

地面の下の見えないところにある「基礎部分」が、大事なんだから。

 

んで、その建物は、この現実世界の、雨や風や嵐や日光や潮風や人為的災害や自然災害や動物の奇襲にさらされることになる。

 

自分の住む建物は、長い時間を、耐えられるのか。

我々、それぞれ住む人間を、その建物は、守ったり、気持ちよくしたり、寝かせたり、元気にしたり、壊れたりして、ともに影響しあう。

 

増築することも在るし、地震で失うこともある。

自ら、手放すこともあるだろう。

 

とにかく、それぞれ。それぞれの家。それぞれの幸福とかいうもの。

 

三匹の子豚みたいに、あっという間に出来ちゃった藁の家を、すぐに失ってしまうかもしれないし、運がよければ、雨や風が吹かないまま、死ぬまで安泰で居られるかもしれない。でも、それは運だ。運に過ぎない。

レンガの家を建てるのに、何年もかかって「あいつ、ばかじゃん」とか言われることもあるだろう。仔豚たちは、兄弟なのに、それぞれ、欲求の深さが違った。

 

「レンガの家を、建てたい」と、心から思ったら

何年かかってもいいから「レンガの家を建てる」ほうがいい。

そのあいだ、ホームレスでも構わない。生きてさえいられて、毎日、家を建てる労働を続ければ、絶対いつか、建つもんね(多分)

 

そして、欲が深いのは、別に悪いことじゃない。

「欲」や「望み」は、自分に向けろ。

他人に、向けるな。

自分以外に、自分の欲を満たしてあげられる人間は、一人も居ない。

あなたの望みを全部知っていて、本当にかなえてくれるヒトは

あなただけです。

 

閑話休題

私は料理が好きだけど、よく「偉いね」って言われる。そのたびにすごくがっかりした気持ちになるし、なんだか悲しくなる。いつも、心で思ってる。全然、偉くなんか、ないんだよ。私は、ただひたすら、わがままなだけなんだ。自分があれ食べたいって、わがまま言って仕方ない。だから自分で作るんだよ。それで、食べて美味しいと思って、ささやかにしあわせな気持ちになるだけ。自分のわがままを叶えてあげているだけで、全然偉いわけじゃない。

自分には、全く関わりの無いことに、何のメリットも無く、自分の身を削るヒトのことを偉いというのではないかと思う。献身してるわけじゃない、だって自分のことじゃん。ヒトが、ヒトに、「偉いね」という時の心理が、私にはよく分からないけど、この人偉いなって私が思ったときの事を思い出すと、多分「その人が、やりたくない事を、一生懸命やっていると感じた」時だと思う。だとすると、私はやりたい事をやりたいようにやって、ワガママし放題に生きているのに、「偉いね」って言われると、馬鹿にされたような気分になる。

あと、

こないだ、本音を言ったらどうしていけないのかを、教えてくれた方々に感謝します。

総合して考えると【相手にとって、都合が悪かったりする】とか【利害が対立していて、認めることが出来ない】って言うことなんだと、思いました。

そう考えると、相手にとってもメリットがあるような方向で、上手に正論を提示できれば、接点が生まれてくる可能性もあるのかもしれないな・・・なんていうことを色々と考えました。

正論であるということは、おそらく、自然の摂理にのっとって、常識的、倫理的、法律的にも、論理上正しいはずだと思うので、その対立する人は、その逆を、分かりながら強行しようとしていることになりますね?そして、もしその間違った論理をごり押ししようという自覚が、もしもあるのであれば、おそらく、罪悪感もありますよね?

それであれば、その罪悪感をなるべく刺激しない方向で、なんとか考えをまとめてみようと思います。

 

今日は、疲れた。おやすみ。

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