超ホモ・サピエンス日記サテライト。

このブログはノンフィクションです。

無限の可能性と、不可能性。

今は、3月。

大体、卒業とか新しい節目に向かう、季節の変わり目なんだろうと

思います。

 

私は、あんまり、春に、そんなに、子供のころは何も思わなかったんです。

嫌でも、好きでも、ない。

春が来た・・・って、いう感じ。

 

大人になったら、とにかく桜。桜が、くるのを、毎日待ってる感じ。

 

なんか、「せっかち」というのは、良い事が無いというようなことを書いたけど、まあ、悪いことでもないのかな・・・とも思う。以前、私は、イベントが好きで、何ヶ月も前から、来るイベントのことを考えながら、日々日常を過ごすというようなを書いた。で、それは、今回、日常・非日常ということをよく考えたのですけれど、

 

・日常の中で、非日常に思いを馳せる

・非日常の中で、日常に思いを馳せる

 

こういうことを、人間はするんだなあと・・・

 

だから、たとえば、夏休みが来るのを楽しみに待ちながら、日常の中を過ごすというのは、ある種のモチベーションを上げる要因でもあるし、非日常が辛いのなら、日常に戻ることを思い浮かべながら、辛い期間を何とか切り抜けることも、可能になるのかな・・・なんて。

 

だから、つまり、日常と非日常は、セットで存在するもの。

じゃないのかな。。。なんて思います。

 

私は穏やかな日常をこよなく愛する、ゆえに、その日常を、よりもっと楽しく過ごすために、非日常が、より非日常らしい、わくわく感があることが、必要で。

それは、実は、むしろ、非日常である、「特別な日」のための、いろいろな準備なのではなくて、むしろ、日常を楽しく過ごすための、ひとつの要素なのかもしれないな・・・と改めて今回、気がついた。

 

日常の中にあって、非日常を考えるのが楽しいのであって、非日常の連続なら、それが日常過ぎて、もうおなか一杯って感じに、なるよね。非日常が日常だと、日常ってのがなんなのか、その言わんとするところが伝わりにくくなる。

 

穏やかな日常って言うのは、凪の海。

風ひとつ無い日の、湖の水面。

青い空の、ずっと、どこまでも、続いているまっすぐな感じ。

 

そんで、どちらかといえば、イベント当日よりも、そして、旅行なんかも、計画している段階が、こよなく楽しいのよ、これが!調べたりリサーチしたりさあ、クチコミ、読み込んで比較検討とかさ。最高。

ここは、脳の出番ね。

 

で、当日は、肉体の出番。私は、あんまり写真とか撮れない。いや、撮るけど、ちょっとだけしか。なんか、皮膚とか舌とかさ、目だって網膜から前頭葉にその光景を、焼き付けたい欲求!!!それが先に立つからね、って子供かっ!!!

 

で、話は変わりますが、発達しょうがいの方で、春が苦手な方って、多いようですね。

私の知る、ADHDは、3月の半ば(今頃くらい)から四月の半ば~GWまで、体調が悪く、不調で、直らなくなる。

気持ちも、なんかどよ~んとしているらしい。

そして、実際、熱が出たり、頭痛も頻繁に起きて、寝てたりすることが多かった。

なぜ?理由無き、春の不調。本人にも理由が不明。

かつては、体調が悪くなっている事実すら気がついていなかった。

「なんで、春は毎年どよーん、ボーっとしてんの?」

って言うことを他人から指摘されて、初めて明るみにでた新事実。

最近は、花粉症でごまかされているけど・・・実は、春不調なのではないかと感じる花粉症の方にも、ときどき出会う。

 

なんでなんだろう???

「どうして、春なんだろう」と、これまで、いろいろ考えてきた。

 

で思い当たったこと。

 

・卒業・入学・クラス替え と、来たる、環境の変化の予知予測

・それにともなう、別れがある

・それにともなう、出会いもある

 

特に、転勤族とかだと、余計だよね。学校も変わるしさ。転勤族の人で、割と人付き合いが苦手って言う人に、わたし結構出会ってる。やっぱり、環境が変わりすぎるのも、疲れるものなんだろう・・・

 

で、人って結局人間の中で生きてるから、人間的環境の変化って、とっても重要なものなんだな・・・と思う。もしかしたら、花粉症って、そういう精神的ストレスがより加速させたりするんじゃないか・・・なんてことも、思ったりする。

だって、なんか体感として、都市住民の方が、田舎住民より、花粉症率が高い気がする(白鳥調べによる独断と偏見)

 

結局、変化というのはできる限り、避けたいけど、避けることはできない。

(生きている以上)

 

まだまだ、子供たちの場合や、学生だったりすると、自分の意思だけではどうにもならない環境の変化が大きく日常にウェイトを占めると思う。(もちろん大人だってあるけどさ)

 

で、そういう時には【無限の可能性】のことを考えほしいなと思います。

 

世界には、【無限の可能性】ってやつがあって

まだまだ、世界は外に広がっている。

目に入っていない、地平線の外には、もっと、世界がつながっている。

 

だから、自分の世界が変化で不安定になっても、その外のことを思ってください。

必死なときは難しいことだけど、ちょっとだけ、考えてみてください。

 

不安定な、目の前の世界。の、その外にも、ちゃあんと日本もつながっているからね。地続きじゃあないんで、面倒くさいけど。辛い時が、ずうっとデフォルトで「辛い」ことはない。

 

「無限の可能性」

 

そして、ある程度大人になっても、環境っていうのは、完全に安定することはない。

で、ある程度、自分で自分の世界を安定させるためにがんばって日々、生き抜いている方々には、ぜひとも、【無限の不可能性】っていうやつもあることを、思ってほしいなあなんて思います。

 

大人になると、「無限の可能性」って言う言葉は、逆に「キツイ」ものでもあるのですよね。ある程度、自分もいろいろに当たって来た。それなりに、経験もあって。

 

だどもね、思うようにいかないのが普通じゃん。

たいていさ、思うようにいかねえんだな、これが。

 

でさ、やっぱり、なんとなく軽めに「行き詰まり」のような、茫洋としたものに、包まれたりとかするんだよね、やっぱ、一生懸命やっててもさ、結果なんていつも出ないしさ。

 

そういう時は

 

【無限の不可能性】

 

わたしたちは、出来ない、たくさんのことがある。

不可能な、たくさんのことが、あって、それでこそ生きていける。

 

もし全部できてやれるとしたら、なんて疲れる人生でしょう。

何でも出来るってことは、何でもやらなきゃいけないことになっちゃう。

 

「自分には、出来ないこと」について、きちっと考えてみたり、認めてみたりすると、とても謙虚になれる。そんで、謙虚になれちゃった方が、楽になることもある。自分に対しても世界に対しても、認識するのがちょっとだけ、フェアになる。

 

なんてことを、ふと思った。

 

・無限の可能性 と 無限の不可能性

・日常 と 非日常

 

こういうのは、陰陽のように、結構セットになっていてね

ふたつで、一個だったり、するんだよ♪

 

だから、春で、ちょっと不安定な気分になったときは

非日常 と、日常 を、うまく使いこなして

日々を、気持ちを、らく~に、過ごしてください。

 

今日は、春が近いこともあって、メッセージぽくしてみました。

若者たち!春の桜の素敵な思い出が、ひとつでも増えますように!

健闘を祈っている。

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