超ホモ・サピエンス日記サテライト。

このブログはノンフィクションです。

コレクター体質・ミニマリスト体質。

コレクターと、ミニマリストの、目的地。

まずは、結論から。どちらも「完ぺき主義」なのではないかと思います、おそらく。この二つは、表裏一体なのではないか?実は逆方向を向いた、同じベクトルなのではないか?

私の仮説では、双方共に、目的地は【完璧】

そして、日々の活動は【limit 完成】である。

極限(きょくげん、limit)とは…

あるものに限りなく近付くさま。

物事の果て。

出典:極限 - Wikipedia

 

極限(限りなく)である理由は、生きている限り完璧は崩れるものであるから。日々、完成に向けて努力し続ける必要があるのだということ。完成はあり得ない。

 

偶然、読んだブログ記事。すみません、引用させて頂きます。

mamichansan.hatenablog.com

すごく面白くて色々考えさせられた。その書評のなかで、

地球の中心までトンネルを掘る (海外文学セレクション)

地球の中心までトンネルを掘る (海外文学セレクション)

 

の中の一編、「あれやこれや博物館」についての文章を読んで非常に思うところがあって・・・思わず、書きたくなってしまいました。

 

この本、すごく読んでみたくなった。

ちなみに図書館の本を探すとき、きっと皆さんご存知なんだと思いますが

calil.jp

これ、超便利ですよ!

私の住む田舎町では、ほとんどの読みたい本が「蔵書なし」のたびに(怒)ということになる有様で毎回、死にたくなりますが!他の市町村はなんて蔵書が充実しているんだろう~と、よだれが垂れてくるので更に悲しくもなります。とりあえず探すのがシステム的に超便利。アマゾンで情報も見られるしさ。我が田舎町の図書館システムがヘッポコな上に、予約も検索も方法がトンチンカン過ぎて本を探しづらいので、こういうサイトは大変ありがたいです。テクノロジー万歳。

 

昔都内就業者だった頃は東京23区の場合、就業している区で図書館カードが取れたので、いつも転職するたびにその区の図書館カード・ゲットして利用し倒していた。23区で就業している方が羨ましい。蔵書超充実してるでな!記憶が確かなら、

には、よく入り浸ってた。みんな駅チカで綺麗なのがいいよね!すごく便利。

 

で、話を戻すぞ。

例のごとく、長くてツマラナイ文章なんで読みたい方だけどうぞ。

結論は、冒頭で以上だし!

コレクター体質。

私は、高校生ぐらいの頃から、音楽や本やサブカルっぽいもの、もちろん王道も含め、アンダーグラウンドまで色々な「カルチャー」みたいな物にはまってしまって、どちらかといえば「収集癖」があったのだろうと思うんです。

 

もともと子供の頃から、洋服のパトロン(金持ちの洋服大好きな叔母)が居て、小柄な彼女は自分が着なくなった洋服を、捨てるのがモッタイナイからと言って全て子供の私にお下がりを回してくれていたんです。小学生の頃から母がウエストや袖丈なんかを少しずつ手直しして、成人である叔母の洋服を着ていた私は、お気に入りの洋服なんかは全部とってあって体に合わせて着ていました。

 

で、それ全部、思い入れがある物は大事に取ってあって。でも、次から次へと来るので、同時に着ない物は順番に従姉妹とか友達とかにジャンジャン上げて、気に入ったものだけを取っておく。だって季節の変わり目ごとに、大きなダンボール4つ分ぐらいずつ新しいのが来るんです。で、その山の中から好きなものを選ぶ。

 

だから子供の頃から洋服だけは大量に所有していた。そして、そういうものを分類したり、飾ったり、組み合わせを考えたりするのが小学生の頃から趣味だった。一人ファッションショーとかよくしてた。兄が大人になって家を出てからは、私の洋服のために一部屋もらいました。

六畳間がこんな感じ(笑)

http://www.thecelebworth.com/wp-content/uploads/2013/10/Nicole-Richie1.jpg (イメージ)中央に居るのは、残念ながら私ではありません。元シンプルライフ・ビッチセレブにこーる・りっちーサンです。(なんか結婚してからすごく幸せそうダネ♪よかったよ~)

 

もう多すぎて、着るためにあるのか、整理するためにあるのか、わからない。365日違う服を着られる、もしくは朝昼晩、着替える必要があるかも知れなくらい。だって、季節ごとに、また新しいのがごっそり来るんです。体は、1つしかないのに、全部着られる訳がない。叔母が回して来る洋服には、タグが付いたまま(つまり一度も着ていない)洋服もたくさんあったし、同じデザインの色違いを何枚も買うんです。気に入ったら、全部買うの。超高度消費社会。

 

んで、六畳間満杯分の洋服は、私が自分の好みで選んだわけではありません。もともと叔母の趣味。彼女の趣味はガーリーで清楚なフレアースカートとかが多くて、すごく可愛い系だった。小学生の頃は林間学校の時にしか、ズボンを履いたことがありませんでした。たった一度だけ。それ以外、人生でズボンは履いた事が無かった。なぜなら叔母がパンツ・スタイルが嫌いだったから。だから、私にも来ない。基本的にそれだけ洋服ありゃ、わざわざ洋服買いません。もったいないしね。

あるんだから必要ないし。第一、全部着られないくらいあるんだから。超高度消費社会リフレイン。

 

そして自分自身も、そういうタイプの服が好きなんだと思っていた。実際眺めてるだけでやっぱり可愛いの。そう、可愛いと思うから、だから着ていた。高校生になるまでは・・・

 

高校生になると、自我が生まれる。

 私は高校が女子高でした。人間っていうのはなんとなく集団の中で、バランスを取ろうとするんじゃないかと思うんですが、私はなんとなく「おとこっぽい」タイプの方になったみたいです。でも、なんかいつの間にか自然に。他の子達とのバランスで、自然にそういう素質があるヒトは、そういう役割を担うようになるんだと思います。だからキャラなんて、ただの運。巡り会わせみたいなもの。

 

多分きっと、人間のタイプなんて、居る環境の中で変わってくる。そして、ある程度までその役割を担い続けると、もう【もともとの本質的な自分のキャラが、どんなものだったかのかなんて、簡単には思い出せなくなる】んじゃないかと思います。

 

そういうふうにして、個々のキャラクターなんて、社会的に・自動的に・獲得する。私がもしも違う高校へ進学していたら(例えば、男女共学高校だったら)こういう生き方をしていなかったのではないか・・・そんな事すら、マジで本気で思ってる。

 

で、自我というものは結構、反動を起こすので高校に入ると、逆ブレ起こして超ボーイッシュになるんですね。制服はもちろんスカートなんですけど、美容院でビートルズの髪型にしてもらって(マッシュルームカット)私服は今度、常にジーンズ(笑)制服以外でスカート履きませんでした(笑)一度も(笑)イチかゼロか、体質なんですよ、ほんとーに。

 

しかも、雑誌はCUTIE(宝島社)好きな洋服のブランドは、ヒステリック・グラマー、ワールド・ワイド・ラブ、オゾン・コミュニティ、スーパーラバーズ、エックスガール・・・って、うっわー書いているだけで恥ずかしくなってきたぞ・・・結構高かったよね値段。その時代にCUTIEかZIPPER読んでた方なら分かりますよね、この雰囲気(照)そう、つぎ込んだよ~バイト代。他にレコードも買わなきゃいけないのにね。大変だったな。

 

で、結局、洋服を着る楽しみは変わらないけど、自分の個性が欲しくなる。で、自分の「本当に欲しい物」で、クローゼットが埋まっていくのを見るのは、ほんとーに至福なんですよ。押し付けられた趣味じゃなくてね。

 

それと同じような感覚で、レコードもCDも音楽雑誌も、全て揃えていきます。

そしてね、欠けている物が在ると、嫌なんです。不満なんです。その欠けた部分をね、完璧に埋めていくんですよ、なめらかに、なるように

 

そのね、棚を眺めているだけで、至福です。天にも昇りそう。

 

それはね、目の前にね、鏡があるんです。

鏡を見ているかのように、感じるんです。

それは、その目の前にある完璧なレコードの棚は、私自身の姿なんですよ。

 

で、次の瞬間、穴が見つかるんです、欠点が。

だからそれを埋めるために、完璧にするために、ショップへGOですよ。

 

 絶対に完璧は手に入らない。けど、次から次へと、完全に向かうんですね。

 

私が思うに、これがコレクター体質なんじゃないかと思いますですね。

 

そのコレクションは、自分自身なんです。

だから、美しく丁寧に整理するし、

綺麗に傷つけないように、

ホコリもきちんと掃除して、大事にします。

命より大事だった。

 

ミニマリスト体質。

30歳を過ぎた時、ある事情で持ち物を極限まで削り生活することになりました。それまでに、何回か機会があってCD・レコードは減らしてはいましたが、最後の砦みたいな物たちは手放せずにいた。

 

でね、これね、どうやって手放すと思いますか?

まず、どれか残そうと思ったら絶対出来ません。

こういう時はね、全部一緒に処分です。

 

そう、例えば自分の肉体だと思ったら、右腕と左腕と左足と右足と、「一本だけ残してもいいよ♪」って言われても「やだー選べない~~~!」って、モジモジしちゃうと思うんですよ。だって、右腕残せば、文字書けるかもしれないけど、脚ゼロも歩けないし不便でしょう。一週間、悩んでも結論でませんYO。

だから、キャタピラーになるんです。

キャタピラー [DVD]

キャタピラー [DVD]

 

 それなら、それぞれに差をつけていない。つまり、1つだけなんて、選べない。それは私自身だから。だから、全部一緒に処分です。これは、人間関係にもいえます。選びません。だから一切の人間関係を切ります。それが、白鳥クオリティです。結局、自己中で非道なのですが、私は中途半端な方が失礼だと考えます。

 

でも、これにはプラスの面があって、理由や言い訳無しに全部切るので、全て「悪いのは自分」つまり自己責任として捉えることが出来ます。そもそも、人間関係は「自分にも相手にも、非や足りない部分があって、上手く行かない」事の方が多いと思うんですが、そこをお互いに譲歩しながら、忘れたふりとかしながら、関係性の再構築を繰り返すものなんだと思うんです。でも人間関係は自分で思うよりも、より相手のせいにしてしまいやすいという弱点があるので、明らかに「非が自分にある」形で縁を切るときの方が、プラスに働きやすいです。

 

なんであっても「それ」を一切合がっさい失うと、自分にとって

「それ」が何だったのか、よく分かります。

 

 とりあえず、私の場合、心も体も軽くなった。空も飛べそうだと思った。最初は悲しくて死んだほうがましだと思ったけど。

 

「あれやこれや博物館」の主人公さんは、所有物が増えていくと

 おなかがぱんぱんに膨れているような気がする。

だと表現されたそうですが、私の場合は

十二単を着ていた感じ」でした。

所有物は、本当のところ意識できていなかっただけで実に重かった。肩にのしかかり、腰にまとわりつき、方向を変えるにも裾がウジャウジャと、足元を邪魔していて、どんなに我がフットワークが重かったのか、初めて気が付きました。洋服なんて、この時フリマ三回、友達10人に分けてもダンボール10箱分くらい捨てたから。

 

子供の頃から、洋服を山のように所有していて、実家に拠点を置いていたせいで(荷物置いておけるからね!)私は、知らなかった。所有物が多いという事は、責任も発生していたのだということを。そして、責任を放棄したら、こんなに身軽で頭の中がすっきりとするものだとは・・・そして、体は軽く、便秘も治った。なぜだろう?多分精神的なものでしょう。

 

荷物が無いって、なんて幸せなことなんだろうと思ったね!

こんな幸福な生き方があるんだと思って!

んで、最初に一応「最低限のものだけで、やって行こう」と思ったけどね…それに満足できると、そしたら今度は、もっと削ぎ落としたくなるんだよね。どんどん、減らしたくなるの。「もっと減らせないか、もっと減らせないか」って。

 

「もう、ナベ一個にしよう。どれを残せば、パスタ作れっかな?」

とか

「もう、洗濯機、買わなくていいや」

とか

「シャンプーで体も洗っちゃえば、いいんじゃん?」

とか、あ、これはヌルヌルするから却下したけど(笑)

 

でね、部屋がね、何にも無いとね、家に帰って超、ホッとしてたんですよ。

 

で、この頃になると、かつての生活の意味とかが理解できてくるんですね。たくさんの所有物は、私を守ってくれていた存在だった。そういうたくさんの物によって、自分は補強もされるし、そういった自分の大切な物たちが私自身と一体化してね、自分自身の価値も、上げてくれてたんですよね。だから、その、物を持っていない時点の自分よりも、物を持っていた私は、安定していただろうと思うんですね。

 

そして、その物たちの「世話」をする事に忙殺されるしね、そのことを一生懸命やることで時間もお金もかかるし、自分の時間が埋まっていくんですね。隙間なくね。そういうことに「充実感」も覚えるわけですよ。自分はやることが沢山あるし、毎日が満たされている。手応えがあるんです。

 

でもね、それも又「他の補強物の力を借りた強さ」であって、自分という人間の本体が強かったわけではなかったんですよ。でも、それは、少しず増えていつの間にか、自分と一体化しているわけだから、もうどこからどこまでが自分の実力なのか、分かりようがない。完璧に守られている子供が、どこか偉そうに見えるのと似ている。

 

だから、実力が分からない。

 

で、これは、お金や、社会的地位や、役割や、コミュニティとか、学校とか、地元とか、色んな場面で起こることなんだろうと思うんですね。

 

で、それ自体は、悪いことじゃないと思う。

 

それも含めて、その人の実力なんだと思う。

 

だ・け・ど・さ!

本体が、強くなりたくなりたいなって、思っちゃったら、

裸になるのが、一番早いですよー。

 

ほら、よく外国語を習得するのに、とにかくその国に行っちゃうのがイイって言うじゃないですか?それと一緒だと思う。

 

裸になると、本体が強くなるしかないからね。

 

ミニマリストの、その果てに…(白鳥さんの場合)

 私は、5年ぐらい続いてたんだと思う。仕事が忙しかったので、あんまり変わらない状態だったけど、基本的にはすごく楽だった。ただね、すごく疲れたり、凹んだりした時に、もっと減らしたくなる欲求が強くなってきて・・・もっともっと減らしたい。でも、減らせない。まあ、ちょっとその頃は、疲れ果てすぎてて滅入って居たのもあるのかと思うんですけどね・・・

 

所有物に癒されない代わりに、もっと減らすことで満たされようとするんです。

 

そして物が少ない部屋の中で、残った物はとても存在感がでっかく感じる。

他のモノに紛れない分、目立って際立って見えるんです。

 

で、そのうちにね、私はね。最終的に、

自分が、処分できればいいのに。

って、考え始めるんですね!!!

 

こんなヒトは、私以外に居ないと思いますよ。頭おかしいからね。

理由がちゃんとあるんですよ。そもそも残り少ないものたちは「私がいるから、必要」な物だけになってるわけですね、この時点で。で、その世話とか管理をするのも、もう嫌になってて(笑)そうするとね、今度はこの物たちを断捨離するためには、自分が居なくなればいい・・・と私は馬鹿なんで考えてしまうわけですね。

 

それで、その頃よく考えていたのは、精神だけの存在になりたいと思っていました。

意味分からないですよね・・・

肉体と精神のうちで、自分が自分たらしめられているのは、私にとってはどちらかというと「精神」のほうなんですよ。いわゆる「幽霊」部分ですよね。肉体がなくなっても、魂が残ってるみたいな。

 

でね、肉体という物は、物質的にこの世に存在しているんですよね、だから、それを維持するために「物」が必要なんです。例えば、お金とかも必要なのは、肉体が物質的な物だからなんです。

 

もしも存在が精神だけなら、税金も発生しないし、そもそもご飯も食べなくていい。

洋服も着なくて良いし、お風呂にも入らなくていい。

 

肉体こそが、究極の断捨離だわ♪

 

私の最終的な結論は、本末転倒な所まで行ってしまったわけです。

 

肉体を無くすという事は結局「生きない」ということになるわけで、そこまで考えが至った時に改めて、再び考え始めるわけですね。

 

肉体という物は、わざわざ私が処分するまでも無く

残り時間を考えれば、それ程の長さでもないだろう。

 

そもそも、肉体は得ようとして得たわけでもなく

精神も得ようとして得たわけでなく

理由無く手にしてしまったもので

物理的に考えて、必ず双方の限界点が来る。

 

なぜなら、肉体は精神の器のようなもので、

今、この肉体という扉を介して、

五感という感覚器を通過して、

精神の糧も得ているのだから。

 

自転車の両輪のようなものだから、

どちらだけを満たせば良いものでもなく、

どちらかを捨て去ることも出来ないのだ。

 

だから、意味のあるものだけで、生きる事は出来ないんだ。

自分が、断捨離を完全にしたくても

自分が「まだ、生きて」居る以上それは、不可能だ。

 

だから、偶然が目の前に現れたものを、自然のままに放置すれば

生きているモノは、私と共に並行して存在し、

死ぬべくモノは、いつか目の前から消えていくだろう。

 

なんか、禅問答みたいだけど、これマジでそういう方向まで行ったよ!思考が。どんなことも10年続けると脳が変形します。だから、どんなヒトでも、なりたいと思えば10年で宇宙人になれると思う。

 

そこで、最後にブログ記事の「あれやこれや博物館」の書評に戻るんですが、マミーさんの最後のラスト・シーンにかけての言葉を読んで・・・

 

心から、本当にそうだなって。

上手くいえないけど、それを、本当に思う。

 

「壊れてしまうものだから」「失いたくないものだから」

「自分の命は、終わりが来るから」

「たとえモノだとしても、寿命のあるものだから」

 

そう!「永遠ではないから」からこそ!

 

愛するということ。

関係性を持つということ。

それは、所有をして管理をするだけでは、足りないのだということ。

 

そういう色々を、ヒトは何度か繰り返される、悲しい喪失や、取り返しの付かないような別れの中で、ひとつひとつ不器用に感じとって、少しずつしか学べないような、ゆっくりとした成長速度の不完全な存在なんじゃなかろうか…と、思います。

 

ま、私が大いにおバカなんですけどね。自分でやってみないと、なんかよく分かんないんですよ。ほんとに。

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