超ホモ・サピエンス日記サテライト。

このブログはノンフィクションです。

コンプレックスと、劣等感。

コンプレックス

若い頃、というか学生時代に

「コンプレックスが、無さそうですね」

と、言われた事がある。

 

その頃は、コンプレックスというモノが、

厳密にどういうモノを指すのか、よく分からなかった。

だから「えーー」と思って

「いやー、あるよ。多分あると思う」

と答えた。

 

だって【コンプレックスの無い人間】というイメージには、自分という人間はどう考えても当てはまらないと思ったからだ。少なくとも私にとって、私自身は特に自信満々のつもりも無く、むしろ、自分の欠点を沢山、知っている方の人間だと思っていた。

 

私は、自分が多くの点で、劣った人間であるのを知っている。

単純な絶対基準においても、他者との比較の相対基準においても。

かなり劣勢であるという事実を、よく知っている。

だって、スゴイ人が一杯いるんですもの!

 

最近になって、再び人との会話の中で繰り返された。

どうしても、私には分からない人間の行動現象があったので

「理解できない」と述べたら

「それは白鳥さんが、コンプレックスが無いから理解出来ないのだ」

また出た、コンプレックス。

 

だから「あるよ!私、自分の劣っている点を、列挙できる」

 

そうしたら、今度は新展開があった!

 

劣っているのを自覚してるのと、

 劣等感を持っているのは、違うのよ」

「おお!なるほど!目からウロコ」

 

そんで、調べましたよ、劣等感・・・

p.i-voce.jp

この中から、一部引用しますと・・

確 かに、コンプレックスがあると、人は歪む。ひねくれたり、後ろ向きになったり、時には意地悪になったりもしてしまう。コンプレックスは人をダメにする 最低の感情で、まったくクソくらえだが、でも言うなれば人生の必要悪ってヤツ。基本的に知的レベルの高い人間ほどコンプレックスをもちやすく、向上心をも つほど強くなる。第一、コンプレックスをもたないと、人間は暴走しやすい。自信過剰になるばかりか、コンプレックスのある“ふつうの人”の気持ちがわから ないから、冷酷に見えるバカに見えるか、ふたつにひとつ。決して得はしないのである。

 

で、多分、ココで述べられているのが、どんぴしゃ

コンプレックス=劣等感 ですね!

 

実は、これには私は心当たりがありまして、

ある環境では、私は「意地悪」と言われた記憶があります。

その一方で、別の環境では「馬鹿・天然・アホ」と言われた経験もあります。

で、たまたま各々の集団の中では、そう見えたのだ…と理解しておりました。

が、この斉藤薫さんの説明を読んで、私は深く納得することとなりました。

「そうか、私はここで言われる、コンプレックスを理解していない人間だ」

 

劣等感

さて、今度は、劣等感に注目してみます。

私 が想像する「劣等感」というものは、実際に「劣等である」事実とは違う事ではないかと思うんです。本当に劣った能力を保有している場合、人は諦め、受け入 れ、ただ事実として、理解する事しかできません。だって、無いもんはしょうがないじゃない。パンが無いなら、ケーキを食べればいいじゃない。しかしながら、劣等感と言うものは、実際に「劣っていなくて も」持つ事があるのではないかと思います。

つまり、事実としての「劣等」ではなくて、

何らかの理由によって持つようになった「感覚」

だからそれは、はっきりと明示できるものではないような感じ。

 

要するに、「なんとなく」であって、「はっきりしない何か」。

理由も根拠も分からない。

 

さて、ココで、コンプレックスの歴史に立ち戻りますと、そもそもコンプレックスという概念を広く提唱したのは、かの有名なユングさんです。

https://thereisonlygod.files.wordpress.com/2012/01/carl_gustav_jung.jpg  ちょっとユーモアありそうな顔。

本来、彼の提唱した「コンプレックス」とは「劣等感」とイコールという訳ではないそうです。

コンプレックス - Wikipedia

以下、引用

日本では、早くから西洋医学の導入と共に、フロイト精神分析もまた心理学・精神医学上の学説として入って来ていた。フロイト精神分析においては、「エディプス複合エディプス・コンプレックス)」が中心的な位置を占めていた。しかし、もともと西洋人の意識・無意識の動力学理論でもあった精神分析は、日本人の心理にはあまり適合しなかった。

戦後アメリカよりアルフレッド・アドラーの「人格心理学」が日本に流入した。アドラー理論は当時「劣等複合(inferiority complex)」を理論の中心に置いていた。この劣等複合の克服を通じて人格の発達が成立するとしたこの理論は日本人には親しみがあったようで、戦後の 日本ではフロイトの理論よりもアドラーの理論が流通し、また、その理論の中心概念である「劣等複合」が一般になった。

「劣等複合」とは 「劣等コンプレックス」のことであるが、日本においてはこのアドラーの理論が一般的に受容された上に、コンプレックスのうちの劣等 コンプレックスが特に流布したため、コンプレックスの名で「劣等複合」を指すような日常の用語法が生まれた。日本では今なお、「コンプレックス」と言え ば、暗黙に「劣等コンプレックス」のことを指す傾向がある。さらに、精神分析の用語から離れて、「コンプレックス」を「劣等感」の同義語とするような誤用も生まれ、今に至っている。

 ということで、【コンプレックス=劣等感】のような理解は、アドラー式の「劣等コンプレックス」が、そのまま日本で定着してしまったと言う経緯があるそうです。

 

【コンプレックス】の本来の意味

 では、本来の純粋な【コンプレックス】の定義というものは、

 

ある事柄と、本来 無関係な感情結合された状態であり、

これを「心的複合体」とも訳すそうです。

 

で、このなかには例えば(解釈によっては)フェチシズムなども含まれるそうです。

 ふむふむ。無関係なのに紐づいちゃったものが「心的複合」と言うわけですね。

 

で、日本的な劣等コンプレックスの事を、ちょっと横に置いて、

この本来の「心的複合」から考えてみて、一体どこが問題なのかと言うと

「無関係な事と気持ちが、結合されている」

と言う事だと思うんです。

 

で、これ自体は、本人の中だけで完結していれば、問題ないと思われます。

例えば【たぬき=寒々しい感情が生まれる】という心的複合があったとして

たまたま、道端で狸ちゃんを見かけて、背筋がゾクゾクしても、

「仕方ないなあ、どうしても狸見ると、寒気がするわあ」

でおしまいですよね。狸に出くわすのは一瞬だし、時々だし。

動物園の飼育員とかだったら疲れるだろうけど。

 

でも、たいていにおいて、他者との絡みで起きたりするケースが問題になったり、トラブルが起きたり、上手く行かない何かが生まれたりするんだと思います。

そして、その何が問題なのかと言うと、

「他者には、理解されない」

と言う事になるんだと思います。だからこそ、場合によっては

「意味不明なやつ」とかいう烙印を押される事でしょう。

 

 だってね、そこにある事実とは、無関係の感情が沸き起こっている人間の反応を、

客観的に傍で見ている他者にとってはですね、その状態は

「事実を、誤認している」

「事実を、捻じ曲げている」

「事実を、思い込みで決め付けている」

ように、見えてしまうんですよ。

 

で、周りの人たちは困るわけです。

目の前にある事は、ただの「事実」なので。

それ以上でも、それ以下でもない。他者にとっては、その強い感情は

【過剰反応】のように映ってしまうのを、許して欲しいなと思います。

そのかわり、こちらも【何らかの複合が在るんだな】と、理解します。

これで、フィフティ、フィフティ。

 

で、まあ、それが簡単には解決できない現象だから、ユングさんやその他の専門家の方々は一生懸命、生涯かけて研究に勤しんでくださったのだと思うのですけど…

それでも、現在に至っても右から左に簡単に治療したり解消したりできるようなものではないんでしょうけれども。

 

困っているか、いないか。

 

でも、やっぱりこれは、例えば専門家であっても「補助的にしか手伝えない」んじゃないかなと思うんです。結局は、本人が、どのようにその「結合」を捉えるか。

最終的には、本人にしか、どうすることも出来ないのではないかと思うんです。

 

結合しちゃってても、生きていくのに苦しみとかトラブルとか無いなら、放って置いてもいいんじゃないかと思います。こだわりが強いとか、執着が激しいとしても、ある程度までなら個性の範囲に入るでしょう。

ただ、もしもそれが大きくなっていって、自分は困らなくても、他者をも巻き込む形になれば、最終的には問題は自分のところに戻って来てしまうからです。

結局、困ってしまうのは本人になってしまうんです。

 

例えば、昔は困っていなかったけど、困るようになってきたとか、そういうケースもあるかもしれない。それはきっと、成長と共に持っているもの自体も変わって来てしまうから、問題が起きたとしても、それは順当な前進で良い事なんだと思う。

 

で、困っているなら、すぐ対処したほうがいい。

なぜなら、時間が掛かるから。

「困っていない」と感じていても、周囲の人が困っている場合もあるかもしれない。

 

あと、困っている事を認めないのも、自分は本当はとても苦しいと思う。

脳は、感情を無視する傾向もあるので、自分の考えと、カラダと、気持ちが、本当に一致しているのか、ときどきじっくり自分の事も、ちゃんと疑って見てあげるといいんじゃないかと思う。自分を決め付けてしまわずに。

 

人間は「これまで通りが、好き」だ。それは仕方が無い。

 

でも、私が、つねづねスゴク思うのは、

「困っている人が多い社会というのは、困っていない人も生きずらい」と思う。

困っている人が、少しでも少なくなるほうが、社会的に多くの人が楽になる。

必ずしも幸福でなくてもいいと思う。これは極論かな・・・

 

み んなが幸福な社会とか、何か私は変だと思っちゃうし、そもそも幸福ってそんなに求めなくちゃいけないものでは、ないんじゃないかとずっと思ってた。なんか 「幸せになるには…」とか「幸福のために…」とかいうフレーズがあまりに当然のように溢れているのが、かねてから疑問に感じていて、まるで「幸福にならなければならない!かのよう に、脅迫されているかのようだ」と思っていた。

 

あと、複合的に「他者が幸福に見えすぎる」とかも、このコンプレックスの問題と絡みそうだなと思うけど、とくに不幸でもない人が、幸福そうな(そう見える)他者と自分を比較して「自分が不幸である」と言う風に感じたりすることもよくあるように見えるけど、【幸福⇔不幸】ではない。たいていが【幸福⇔普通⇔不幸】であって、イメージで型にはめすぎる単純さも、結構、厄介なものだと思う。

 

それにそういうのは固定したものではないしさ。

生きている以上、変動するものだ。

 

かつて私は「幸福を求めない権利が、私にはある」と、両親に声明を出した。

私の両親は「勝手にやりなさい」と言った(ちょっと文章にすると笑えるな…)

そして結果的に、今、私はある種の幸福なんだろうと思う。

つまるところ、困っていないと言う点で。まあ、おおむね普通だと思う。

 

でも【困っている人が多い社会】はダメだと思う。何に困っているのかは個人個人でケースバイケースで全く違うだろうけど、困っているなら解消するのがいい。直ぐには解決できなくても、解消に向かう活動をするほうが、時間は有効に使える。

 

自分が、一体なにに困っているのかが、分かりづらい場合もあるかと思う。【心的複合】とか言っちゃうと、ついつい難しく考えてしまうけれど、本来人間の情動部分なんてそんなに単純なものではなく、そもそも、沢山の複合を起こしていると思う。それが、これまで生きてきた経験の結果なんだと思うし、そういうものが、悪い事だけでなくて、沢山の素晴らしいものを生み出してきたんだと思う。

 

勇気を出す事や他者との想いの交換とか、愛情を伝える方法、手段、そういったもの。芸術だって、ただそのままだけじゃなくて、人の心に直接的ではなくて喚起する何かとか。生命力を生み出すものっていうのは、絶対に悪い事じゃないし、それが例え自分だけにしか有効でなくても(普遍でなくとも)有効であるなら、大事にする方が良いし、その正体なんか分かんなくっていいんだ。大切に抱きしめるような感情だ。

 

「心的複合体」のせいで、もしも心が疲弊しているなら。物事が思うように進まずに、日々焦燥や、目の前の事態が混迷しているのなら。そういう場合は、少しずつでも解消しようと「選択する」方がいい。一日でも早いほうがいい。そこに振り回されている間に、時は飛ぶように過ぎ去ってしまうから。

 

logmi.jp

 すごく、いいいいいいスピーチ。びっくり共感。似たような事おもってた。

ちなみに先日、発見したレミさんのサイトのコラムにも「夢はいらない」って!

すごい符合。

remy.jp

私も夢ないです。夢は夜、寝てる間に映画みたいに見て楽しむもんだと思っています。とりあえず、次の誕生日にすごい美味しいものが食べたいくらいの夢ならあります。でも、それ、かなえるの完全に自分だしな。

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